2014年7月8日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 32

自分も“癌”になって

5月に受けた人間ドックで肝細胞がんであることが分かり、肝image切除の手術を受けることになりました。肝臓に異常が見つかり、血液検査や画像検査の精密検査を受けました。覚悟はしていましたが、医師から「がんです」との説明を受けた時は一瞬頭が思考停止のような感覚になって、医師に思わず「先生にお任せします」と言ってしまいました。医師からは,「これはお任せするのでなく、自分で決めることですよ」と言われてしました。そのとき、自分ってまだ成長していないのだなあと気づかされました。

現代の医療は自律的に自分の治療を選択していく時代です。自分の思考が停止したような感覚になったときは、無意識下の過去の文化的なパターナリズムがもたげてきたのではないでしょうか。もともと腎臓が悪く、食養生で苦労していただけに、さらに肝臓も悪くなって、さらに苦しみが増すことに拒否感がありました。苦しみについて考えることからも逃げたい気持ちでした。自分の時間も限られてきたという実感が、常時自分の脳裏にもたげてきました。それでも、告知を受けて数日が経つにしたがって冷静になっていったようです。

image初めは、自分が勤めている病院で手術を受けることを決めていました。その後、周りの人たちや自分の共同体(修道会)の院長からセカンドオピニオンを受けた方がよいと勧められ、その方向を探ってみることになりました。セカンドオピニオン先を探すうちに周りの人から「神さまのお導きですね」という言葉を聞くようになりました。突然10年ぶりに私を訪ねてくださったあるがん患者の方の言葉からも、神が私に何かを語ろうとされているように思いました。

「神さまのお導きですね」を思い起こし意識するうちに、たとえ死が近いことになっても自分の内面が落ち着きを保つことができるように感じられていきました。

「神さまのお導きですね」という言葉は、決して科学的な客観性にもとづく証拠があるものではなく、あくまでも主観的な思いのはずですと思います。聖書が語る、「主はあなたと共におられる」ということです。image

人が生きるということは、何かを絶えず意識することです。意識することで私たちの内面には意識の構造が作られていきます。その構造は一つの建物のようなものです。土台や中心的な柱が頑丈にできあがっていれば、試練や困難を抱えても建物の揺れは少ないということでしょう。

土台や中心的な柱が何になるのかということは人の価値観によって異なってきます。私のがん告知を受けた体験からは、神との関係を体験的に意識できるということ、すなわち「主は私たちと共におられる」という体験的実感が私たちの内面を強固にしていくことになるという体験でした。

兄弟 藤原 昭