2009年11月26日木曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと

その① - 私の病気体験から
今から15年前、釜ケ崎で病気に倒れ、大阪の公立病院で入院したときの出来事です。病気のいろいろな症状で苦しんでいました。ある夜、9時頃だったと思います。寝る前の検温のため若い看護師が私のところに来ました。そのとき、私がある意味で耐えられないような表情をしていたのだと思います。その看護師は、そんな私を見て、「 私はクリスチャンではありませんが、聖書は読むのです。聖書の言葉に励まされますよね。‘ あなたがたを耐えられない試練に遭わせられることはない(1コリント10-13)’ という言葉、あれ、私、あの言葉が大好きです。」と言うのです。何か、そのとき、「神父であれば、そのような言葉に支えられるはずではないのですか」と遠回しに説教を受けているように感じました。しかし、その言葉を投げかけられても心に入ってこないのです。言葉が返 せないのです。かえって心が重くなるのです。
数日後、その病院で働いているある信者の看護師が訪ねてくれました。その人は、難病をもちながら日中その病院の玄関で総合案内係をしていました。彼女は自分からはほとんど語りませんでした。むしろ私が話すのを聞こうとするような姿勢でした。訪問はそれから二、三回続きました。その後、私の心が軽くなったように感じました。寧ろ、話しているうちに、自分のどこに問題があるのか見えてくるように思えたのです。image
この体験から考えさせられました。私も、あの若い看護師のように同じことをしてきたのではないか。苦しんでいる人に、信徒に、同じことをしてきたのではないか、と。聴くことより、話すことが先になっていたのではないか。相手への先入観(思い込み)を抱いて語っていたのではないか、と。どちらも、心と心の関係性を築く上で、妨げとなる誰もが陥りやすい罠ではないでしょうか。
六本木修道院 藤原 昭

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