2009年12月22日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと

その② -私の病気体験から

聴くこと、先入観なしに聴くことの難しさ

前回お話したように、自分が病人になってみて、人の心を理解することは難しいことなのだと思うようになりました。「神父、クリスチャンだから、こんなこと分かっているでしょう」と付きつけられると、何も言えなくなってしまいます。「当然なことが分かっていない」ことがあるのです。

「苦しんでいる」人と、かかわるときは、相手へのいろいろな前提を一旦置いて、「相手をあるがまま」に受け入れることが大事と思います。相手への「先入観を棚上げに」するのです。先入観を棚上げにすることが難しいとき、それなら、まず相手に「聴くこと」です。相手が語らないときは、待つことです。そうすると相手も徐々に心を開いてきます。

clip_image002病人も、自分の感情や思いを、自分の言葉で表現して、「自分をあるがままに」見るのです。「自分自身が見えてないこと」があるのです。自分に目覚めていないこともあります。真理とかけ離れた「思い込み」を持ったままになっていることもあります。「こんなことも分かっていなかった」自分を認められるようになるなら、それは意味があることではないでしょうか。病気という「存在の危機に立たされ」、自分の気持ちを人に語ることで、「自分が何者か」が自分に提示されてきます。

私自身が、「分かっていなかった」ということが分かったのです。それで、臨床パストラルケアカウンセリングを初めて学ぼうと決心し、姫路聖マリア病院のパストラルケアをお手伝いするようになりました。臨床パストラルケアカウンセリングは司牧カウンセリング(牧会カウンセリン)と呼ばれ、司牧神学の領域です。80年前、アメリカから始まりましたが、特徴は、神学、哲学、心理学の統合にあります。こういう実践的なところは、ヨーロッパよりアメリカが早いですね。

私も臨床パアストラルケアの傾聴の研修を受けました。ところが、しばらくして、ある患者さんから、私に関して「もう病室に来てほしくない」という病院への投書がありました。50代の肝硬変の患者でした。週一回、お見舞い程度の訪問をしていました。あまり話したくないような雰囲気がありました。

ある日、同じ病室の別の患者を訪問して、ついでに、その患者に一言、言葉をかけ、退室しました。「希望を失わないでほしい」というような励ましの一言だったと思います。それが、相手に気に入らなかったのです。相手の心を理解していない言葉になっていたのです。「説教をするなら、来てほclip_image004しくない。話を聞く人ではないのですか」という投書内容でした。

傾聴の研修を受けても、聴くことの難しさ、相手への先入観で言葉を選んでしまっている自分を思い知らされたわけです。投書されることで、これも「自分が何者か」という提示を受けたのだと思いました。

六本木修道院 藤原 昭

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