2010年4月6日火曜日

「生と死の医療現場で考えさせられたこと」 その⑤

《不気味な不安》と向き合う

救急車で運ばれてきた40代の男性を訪問したときのことです。入院後の治療によって病気が快復に向かい、話せるようになっているのに、かえって不安がますます強くなっているようでした。私が、「病気のことが不安ですか」と聞くと、「医療費の支払いで」ということでした。話を聞いてみると、「失業し、日雇労働をしていて救急車に運ばれることになってしまった。まだ2人の子供は小学生、妻はパートの仕事に就いている程度。この病気では日雇に戻れない、病院の支払いも、収入の当ても全くない。」ということでした。さっそく、病院のソーシャルワーカーに連絡すると、ソーシャルワーカーもそのことを知っていて、これから、医療扶助の手続きをするということでした。それから一週間後訪問すると、もう不安は消えてしまっているように思われimageるほどの表情の変わりようでした。  

もしこの男性が医療扶助を受けられないことになったら、彼には《不気味な不安》が続くことになったと思われます。《不気味な不安》は、自分が生きること(存在すること)を根本から否定され、拒否されていると感じられるような状況で現れるものです。自ら死を選ぶことを考える人たちは、このような状況にあるのではないでしょうか。借金の重圧や貧困に置かれて社会に支えるものを見出せない場合、この世の「自分の居場所」を失うようなものです。学校で‘いじめ’に遭っている子供もそうです。「自分の居場所」がなくなります。

重い病人もそうです。まず自分の肉体が壊れていくことを感じます。やがて、それまで生きてきた「自分の居場所」を失うことになります。待ち構えているのは、肉体の消滅と自分の時間も喪失する死です。《不気味な不安》がやってきます。今までの自分の人生を構成していた生き甲斐や、価値あると思っていたことが崩壊していきます。「もう生きている意味がない」と思うようにもなります。価値あると思っていたものが見せかけであったことにも気づかされます。私たちはこのような暗闇に入れられて、この世の生きること(存在すること)のほんとうの理由や根拠を根本的に問おうとするのです。ほんとうの生き方に目覚めようとするのです。

我々が、この世に生れてきたことに意味があるはずです。日常から生きる意味(存在の意味)を根源から問うなら、生涯をよりよく生きることができるでしょう。しかし現実の人間は、目の前の課題や見せかけの輝き、世間的な価値観に心を奪われてしまいがちです。自分が生きる根拠(存在の根拠)をもたないから、あるいは乏しいから不安になるのではないでしょうか。ある意味で、我々に《不気味な不安》が必要です。《不気味な不安》と向き合う中で、自分を見直し、神からの語りかけと自己の内側にある魂からの語りかけを聴こうとするのではないでしょうか。病気が、生きる意味を再構築させるのです。

imageアシジのフランシスコも、このような《不気味な不安》と向き合い続けた人に思えます。戦争で捕虜になって病気になったとき、ハンセン病の人と出会ったとき、たった一人でキリストからの呼びかけに従いまだ兄弟に出会っていなかったとき、修道会内部で意見の対立があったときなど、いずれも彼は安易な道を選択しなかったように思えます。《不気味な不安》から逃げないで、見せかけでない真の光からの語りかけに耳を傾けたようとした人ではなかったでしょうか

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