2014年4月15日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 31

捨てられた石が隅の親石となる

東北の大震災から3年が過ぎました。現地にも行っていない者が震災の地の問題を語ることに躊躇しますが、医療という生と死の現場で働く者として私なりの思いを語ってみたいと思います。

image突然の自然災害でいのちを奪われた人は、どのような思いで旅立たれたのでしょうか。死者に聞いてみることは不可能なので想像してみることしかできません。神や仏が存在するなら、なぜこんな苦しみを私たちに与えるのかと思われた被災者が少なくなかったのではないでしょうか。犠牲となった方々には、無念の思いを抱いて亡くなった方々が少なくなかったと思われます。「神さま、助けてください」という叫びにかかわらず、神は何もしてくださらなかった、神に捨てられたという思いのもとに亡くなった方もあったかと思います。

震災の犠牲者でないにしても、医療の現場で患者の家族とかかわっていても、捨てられた石のような存在の家族に出会うことがあります。家族のためにひたすら働き続けて定年を迎え、これから自分らいしい生活を取り戻したい、とくに家族と一緒にいることができると思っていた矢先に、末期がんと宣告され、あっという間に亡くなっていく患者があります。また、子供たちがまだ幼小であるのに親が亡くなっていく場面に出会うと、「神さま、何とかならなかったのですか?」とも、私も言いたい気持ちになります。

残された者にも大きな試練が待ち受けています。大切な人を突然亡くした方々の悲しみが簡単に癒されるものではありません。配偶者に旅立たれ、20年も経ってやっと立ち直れたという方もあります。医療の現場でも、後を追って自ら命を経つ人もあります。

気丈夫にしている人が悲嘆を先送りにしてしまっていたりすることを看取りの現場で経験します。残された者の感情の表出と共に生きて行こうとする家族や仲間、そして寄り添い続ける支援者が必要です。癒されるためには時間もかかるのです。

一家の大黒柱を失うと、経済的な生活基盤も失われることになります。震災では、家族も家も仕事も何もかも失った被災者が少なくありませんでした。地域の復興と言っても、いくつもの課題を背負いながらで、容易に進むものではありません。image

神はなぜこのような苦しみを私たちに与えられるのでしょうか。信仰の視点に立たない限り、その意味を簡単で見つけることはできません。『夜と霧』に著者ビクトール・フランクルは、それを超意味といっています。普通の意味では理解できないと思います。しかし、危機や試練を耐える中で、何にがしかの意味を私たちは見出していけるのではないでしょうか。配偶者に旅立たれて20年も経ってやっと立ち上がれた人は、主人が亡くなって、子供たちが一つになりました。一つになって私を支えてくれました、と話されていた。

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