2013年12月31日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 30

「貧しい者」の内にある豊かさ

現場にいると、聖書が私たちに語っていることが深く理解できる機会が与えられます。その一つが貧しい者とのかかわりです。

imageある中年のがん患者の女性Pさんの病室を訪ねていたときがありました。当時、彼女は抗がん剤の治療の副作用で非常に苦しんでいました。すでに病気はかなり進行しており他の臓器にも転移していました。このまま抗がん剤治療を続けて果たしてよくなるのか、抗がん剤の副作用がさらに続いてそれに自分は耐えられるのか、それらへの不安を強くもっていた人でした。抗がん剤の副作用で苦しみ続けるより、もう死んでもよいから抗がん剤を止めてしまいたいとも語ったりしていました。しかし、それでも定期的に抗がん剤治療のために入院していました。

彼女はあるとき、人に勧められて知的障がい者の作業所に行ってみました。そこで知的障がい者の「純粋な心」に心打たれ、ボランティアとして通うようになりました。通っているうちに、作業所の職員からも信頼されて職員として来てほしいと言われるようになったのです。彼女はそれを受け入れて職員になりました。そのうちに抗がん剤投与で入院しても、以前のような不安の言葉と焦燥しきった表情は消えて行き、生き生きした姿を私たちに見せるようになったのです。彼女は、その作業所の人たちから、とくに知的障がい者から力をもらっていると、いつも語るようになりました。

imageさんが人に勧められて障がい者の作業所に行くのには勇気が必要だったと思います。頭の髪の毛は抜けているし、その他にも治療によるハンディキャップを背負っていました。普通であれば、こんな状態でそんなところに行ってもという気持ちになります。まして職員になってほしいという依頼を受けたときも、果たして自分に勤まるのかという思いもあったと思います。そのようなPさんを決心させたものは何だったのでしょうか。

まず彼女が語ってくれた知的障害者の作業所の人たちの「純粋な心」なのでしょう。普通に生きている者にはない心です。Pさん自身も今まで自分がもっていたものを喪失していく過程で、自分の死を意識しながら、ほんとうに自分のいのちを支えてくれるものを求めていたのではないでしょうか。Pさん自身の心も「純粋な心」に向かいつつあったと言えるのでしょう。

私自身も、釜が崎の日雇い労働者や大きな病気を背負っている人たちとのかかわりから、Pさんと同じような思いを経験してきました。確かに貧しい人々の中にも、自己中心的で欲の深い人もいます。けれども、Pさんが出会った知的障害者の作業所の人たちの純粋な心は、聖書が語る「打ち砕かれた心」の持ち主なのだと思います。そのような貧しい人との出会いに私たちは癒され、自分自身の実存も変容されて行くのです。

imageやがて入院する彼女の姿を見かけることが少なくなりました。あるとき院内でお会いしたとき、「今も障がい者の作業所に通っておられるのですか」と私から聞くと、「行ってますよ!」という答えでした。「お体の具合はいかがですか」と聞くと、「癌が消えてしまっています。先生からは完治しましたねと言われました。抗がん剤治療を止めていたのに。」という話でした。「ここまで乗り越えられた理由は何でしょうか、障がい者の作業所に通って、そこの人たちから力をもらわれたからでしょうか」と尋ねると、「もちろんそのことと、周りのみんなの支え、それから居場所があることかな」と話されたのでした。

貧しい人とのかかわり、周りのみんなの支え、それから居場所があることは、私たちの実存(生)がよりよいものになるためには
最も大事な必要条件ではないでしょうか。

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