2010年6月21日月曜日

「生と死の医療現場で考えさせられたこと」 その⑦

記憶を癒す

私たちは、日常の忙しい生活、眼前の課題多き人生のため「記憶を癒す」作業が未完了のままいつの間にか長い年月がたってしまっていることがよくあります。

image ある重病の女性が「私は赦されるのでしょうか」と語ったことがありました。そのとき私は、聖書の中の「神のあわれみ」についてごく簡単にお話ししました。さらに、『歎異抄』に書かれている親鸞の言葉を添えて、「神仏に祈られ るとよいのではないでしょうか」と言って退室しました。二三日後に病室をお訪ねしたとき、すでに亡くなられていました。その方の隣のベットの患者さんが、「『赦されるのですって!』とその方が言っておられましたと」と私に話してくださいました。罪責感は日常においてはとくに隠れていることが多いのではないでしょうか。抑圧して無意識の領域に追いやっていることもよくあります。日常性が壊れ人生の危機のときそれが問題となってきます。隠れていたものが意識に上ってくるからです。

臨床の場の体験から人間にとって和解がもっとも困難な事柄の一つだと思うようになりました。介護・看護が必要な病人や高齢者を抱えたために家族の成員間の対立がさらに大きくなる場合が少なくありません。その家族の成員間の対立も、案外それまでの家族の歴史と関係しているようです。とくに過去に傷けられた体験はそのときの印象が無意識の中に蓄積され、折に触れて意識に上ってきます。大きな傷が残っているときは、容易に傷つけた相手を受け入れることができません。過去の印象で相 手と向き合うからです。コミュニケーションすimageら成り立たないことがあります。このような状況を打開するためには記憶の癒しが必要です。家族の誰かが和解のため意識的に立ち上がるなら家族に癒される道が開かれます。また、家族の成員の語りを理解的態度で聴けるような第三者の介入も役立ちます。理解してもらえる人に語ることによって語る人の記憶が徐々に浄化されていく可能性があるからです。カトリックの「ゆるしの秘跡」は、その意味で大変すぐれた「記憶を癒す」方法だと思います。

ニーチェはルサンチマン(怨恨の感情)ということを言いました。もともとキリスト教が奴隷や下層階級の人々を基盤にして生まれたのは、抑圧する者にたいする彼らのルサンチマンが背景になっているのだとニーチェは言うのです。ちょっと思い込みと偏見が極端ですが、社会のimage色々の動き、人の言葉と行動の背景に案外そのような感情が忍び込んでいるかもしれません。見えないからやっかいです。今、アシジのフランシスコの「平和の祈り」がいろいろなところで使われているようです。先日、カ ウンセリング講座で最初にフランシスコの「平和の祈り」が出てきて驚きました。平和と「記憶の癒し」は深い関連性をもっているからではないでしょうか。

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