2010年8月3日火曜日

「生と死の医療現場で考えさせられたこと」その⑧

ケアにおける自律の尊重と他律との関係

現代の医療の現場での患者に対する向き合い方の根底にあるものは、相手の自律の尊重です。たとえば、手術を必要とする場合、医師はいくつかの選択肢を患者に提示することがありますが、どれを選ぶかは、患者にゆだねられます。

image30年以上前なら、患者は医師が決めた治療方針に従うのが普通でした。これは、1960年代以降アメ リカで医療裁判が多発し、その結果、それまでのパターナリズム(家長主義)的な医療の反省がなされ、患者の権利、患者の自己決定権を尊重した医療に移行してきたのです。ですから、現代では、病気を医師や病院におまかせするのでなく、病人が自分の病気についての知識をあらかじめよく学んでおく必要があるのです。

ケアにおいても、昔と違って出来るだけ病人の自律を尊重しようとします。しかし、医療機関によってバラツキはかなりあると思いますし、医療機関も経営という観点からはそのことについては相当限界を有しています。たとえば 、一人でトイレに行けない人が、トイレに行くためには、「看護師にいつも手伝ってほしい」と頼んだとしても、現実に経営上から看護師の充分な配置が充分にできないため「ポータブルトイレを病室に置かせてもらいます」と言われるような場合です。 image

「あなたは、そのポータブルトイレでの排泄も今の状況では無理です」と医師や看護師から言われることがあります。たとえば末期癌などでも、骨がボロボロになり、もし起き上がたって動くなら骨折してしまうような場合です。共通してこういう状況になるのは病人にとって最もの辛いことの一つです。「あなたは、今ポータブルトイレも無理な状況になっています。尿用バルーンカテーテルを挿入するか、ベッド上での排泄になります」と説明されても、それを受け入れることができず、どこまでも一人でトイレに行こうとしたり、ホータブルトイレで排泄しようとしたりすることがよくあります。

自分自身が排泄まで人の世話にならなければならないなら、「自分の存在」は「無意味、無価値」と感じてしまうようになることはある意味で当然なのかもしれません。排泄に関してそのような病人を説得する場合も、周りの者がそのような病人の辛さを理解して、「出来るだけあなたの自律を尊重します」というような姿勢を相手に感じさせることがケアの観点からは望ましいのです。

その病人も、最期 には自分のすべてを手渡してすべてを人の世話になって死んでいくということを受け入れていく必要があります。自律の放棄です。この自律の放棄が比較的スムーズに行く人と、最期まで受け入れられない人があるようです。よく考えてみると、私たちの存在は自律的であるとともに、他律的(他者に生かされているということ)ではないでしょうか。いや、むしろ他律が先にあって、自律はその上に成image立しているのです。聖書は、私たちの「いのち」が何よりも神に生かされている存在であること告げています。

現代は自律や権利が尊重される時代ですが、お互いが「生かされている存在」ということにも気づけるようになりたいものです。医療が患者の権利や自律を尊重する面を大事にするだけでなく、患者自身も他者に生かされている存在、また医療者に支えられている存在としての気づきがあってほしいと思います。両者の間に信頼関係があることが、望ましい医療であり、望ましい福祉になると言えるのではないでしょうか。

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