2011年2月9日水曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 13

気晴らし、趣味をもつことの大切さ

長期療養を余儀なくされ、重い病を抱えた病人は、行動範囲が著しく制限され、歩くことも禁止されたりする場合が少なくありません。病気によっては、身動きさえもできず、寝たきりになるときもあります。そんな場合、何か気分転換をして心理的圧迫感から解放されようとしても、簡単に適当な気分を晴らせるものをなかなか見つけられません。

あるとき、血液疾患で長期に入院されていた70代前半の婦人を病室へ訪ねていたことがありました。服用している薬の関係で、感染症になりやすく、転倒による骨折の危険性からもあり、医師より歩かないようにと言われていました。

その女性にとって生活のすべてがベット上という狭い空間のみでした。生活空間がベット上だけでは、「気晴らし」になるものがなかなか見つけられません。テレビを見ることにも興味がわかず、絶えず「情けない」という言葉がしばしばその方の口から出ました。「情けない」という言葉には、家族にも迷惑をかけているという意味が含まれていました。
病棟スタッフがいろいろと、こんなことをしてみたら「気晴らし」になるのではと働きかけても、気持ちが向かないという様子でした。手芸のようなことをしてみたらと勧められたことがありました。やってみても長続きしませんでした。

私も、それまでの人生の歩みを聞かせていただくことから何か本人が興味をもてるものを引き出せるかなと思い、かかわってみました。しかし、わたしの力量不足もあったと思いますが、何も「気晴らし」になるようなものを引き出せませんでした。人間が健康なとき「気晴らし」は見つけやすいと思います。

臨床での経験からは、むしろ病気になったときこそ重要と思うようになりました。元気なときは、ストレスを抱えていても、食べることとか何かを見つけることはできます。けれども、生活空間はじめ生活が著しく制限されるときは、「気晴らし」を見つけることが非常に困難になります。そのようなときでも、上手に「気晴らし」を見つけられる病人は、普段から「趣味」をもったり生活上の小さなことにも「楽しみ」を見出している人でした。

フランスの哲学者パスカルは「パンセ」の中で、人間は子供のときから要求されることが多いので「気晴らし」なしには生きていけないというようなことを言っていたと思います。人間は病気になっても別の面で自分に要求される事柄が多くなります。生活のすべてがベット上という狭い空間でも、「気晴らし」ができるような「趣味」や生活の技術を、元気なときから身につけておきたいものです。

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