2011年4月26日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 16

支えること、支えられること

あの3月11の大震災から一カ月半が経ちました。何もかも失ってしまった方が多い中で、家族や親しい人を突然亡くした方々は、とくにその悲しみが一層よみがえるころと思われます。「不自由でストレスが溜まる避難所・避難先での生活、いつまで続くのか」と思いながらの日々を送られている方々。いつ終わるとも分からない原発の不安の日々。ちょっとした他人の親切、やさしい言葉にも励まされながら、「会社を、地域を、教会を復興させるために頑張りたいという気持をもっている方。

一方、「なぜ、自分だけが生き残ったのだろうか」、「これから家族のために生きようと思っていたのに、何もしてあげられなかった」と、辛い思いの日々の方もあるでしょう。被災者の日々の世界は、私たちのような普通に生きている者の世界とは全く異なっています。

この一カ月半、支援活動は緊急支援と医療従事者が支援する活動が中心でした。復興をめざして、徐々にボランティアなどの支援者の活動も受け入れる態勢が整えられていくと思います。たしかに今、お金(義援金)は役立ちます。

でも、「人を支える・・・」とは、「人に支えられる・・・」とは、どういうことなのでしょうか。ほんとうに支えることはできるのでしょうか。そんなことを考えながら、私たちも支援者のお仲間に入れさせてもらえたらと思います。

「病人を支える」ということでも、決して簡単ではないということを医療現場で痛感させられていました。支えられる者と支える人のよい関係とは、どういう関係でしょうか。支えられる人の思いや、その人の見えない部分を理解し配慮することは非常に難しいのです。病院でもいろいろの職種の人が一人の病人に関わります。それでも、すれ違うことがあります。

まず、距離のもち方が大事なようにも思います。あるときは近づいてみたり、あるときは離れてみたり。被災者が、支援者に語ってくださるときを「待つ」という忍耐が必要です。苦しむ人、悲しむ人の感受性は敏感になっています。ですから、苦しむ人、悲しむ人の感受性に寄り添える人たち、すなわち同じように苦しみ、悲しんできた人たちに心と言葉を最初に向けます。しかし、やがて徐々に慰められ、そうでない者にも語ってくださるときが来るのではないでしょうか。そんなときが来ることを希望したいと思います。

そんな思いで‘支援者の祈り’を作ってみました。

支援者の祈り

主よ、私たちに被災者を支援する道を気づかせてください。
私たちの心の闇を照らし、見えるものとしてください。
あなたは、のどの渇いている者に水一杯でも与えてくれる人
をお忘れになりません。
道端で売られている一匹の雀のいのちにも心を配られる方です。
どうかそのようなあなたの霊を私たちにも分け与えてください。
あなたの霊に照らされ、あなたの霊に励まされ、あなたの霊に
強められ、被災された苦しむ人、悲しむ人々と関わることがで
きますように。

主キリストによって、アーメン。

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