2011年6月21日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 17

苦難を抱えることの意味

ある難病を抱える方の病室を訪問して退室しようとしたとき、「もし神が存在するなら、こんな苦しみを与えるはずがないでしょう!」と言われました。何も言葉を返せないで退室したことを思い出します。

人が死に至る病や、非常に大きな苦しみをもたらす病気を抱えるとき、「なぜ、こんな苦しみが!」、「なぜ、自分だけが!」といったような問いかけが生まれます。難病を抱えたこの方のような訴え方も、苦難を抱える人からよく表出される言葉です。人生の危機的緊急事態に直面すると、私たちは「何とかせねば・・」とその対応に追われます。

その後、時間が少し経ってくると、このような「なぜ」という問いが心の中に湧き上がってきます。苦しみの根拠や意味を求めるからです。しかし、苦難の状況を嘆かないで、「なるようにしかならない」、「起こってしまったことはしかたない」と言い、そのような状況をそのまま受け止めることで、苦難に対処しようとする人も現実にあります。苦難に対する反応も人によって異なってきます。それまでその人がもっていた価値観が関係しているのではないでしょうか。

病院の小児科や産科で赤ちゃんが、出産前、あるいは出産後しばらくして亡くなることがありました。このようなケースで、両親の悲嘆、とくに若い母親の悲嘆は決して小さくはありません。お母さんにとっては、大切なわが子を失うことになるからです。

悲嘆を後々にずっと引きずる場合もあります。家族にとっては、楽しい家庭を夢見ていたのに、神さまが「なぜ、赤ちゃんに普通の人生を与えてくれなかったのか」という思いも出てきます。こんなとき、聖堂で小さなお祈りをしてからご家族をお見送りしました。

祈りの中では、聖書の短い箇所を読み、簡単なコメントを付けました。旧約聖書の「知恵の書」をよく使いました。若くして亡くなった人について、「実は神がその人の命を天に移されたのだ」という記述の箇所があるからです。

新約聖書では、キリストが「人のいのちの復活」について語っている箇所に触れて、人間のいのちが死を超えた神のいのちにつながっていることを話しました。また「たとえ、赤ちゃんと両親との生活がわずかな日々であったけれど、その生涯は長生きした人に負けない意味をもっていたかもしれない!」というようなことも話すこともありました。

『夜と霧』の著者フランクルの考え方に沿ったものです。そのようなコメントに対して、反発や疑問を投げかける言葉が返ってきたことはありませんでした。人間は希望を求めるとともに、意味を求める存在ではないでしょうか。私たちが苦難に意味を見出すと、どんな苦難にも耐えることができるとフランクルは言います。

私たちは日常、何かに意味や価値を見出しながら生きています。しかし、苦難を抱え込む中で無意味感に襲われます。そこから脱出するために「新しい意味や価値」を見出そうともがきます。その向こうに新しい希望を見つけようとします。苦難を抱え込む中で、いつの間にか「自分を超える」作業をしているのです。

最近、朝日新聞でフランクルに関しての連載がありました。フランクルの苦難に対する意味論的な考え方は、今日の医療現場のケアでも使われています。次回は私自身の苦難について語ってみたいと思います。

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