2011年8月2日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 18

苦難を抱えることの意味(私自身の人生から)

人が自分の人生を振り返って他者に語ることは意味のあることです。簡単には語りつくせないことに気づきます。人生には多くの出来事があり、一つの出来事にもいくつかの見方があるからです。しかし、人生の体験を言葉で表現して他者に語るたびに、過去の体験の理解も深まっていきます。それを聴く者も、語る人への理解を深めます。医療という臨床の現場で病者の語りを聴くうちにそのことを思っていました。今回は、私自身が自分の人生を振り返って、私の体験から「苦難を抱えることの意味」を語ってみたいと思います。
人生を振り返ってみて、大きく二つの苦難を抱えてきました。一つは、幼少のときからからだが弱かったことです。現在も病気(腎臓病)という重荷を抱え、日々の体調管理、食事管理に苦労しています。もう一つは、人生のしっかりした土台である人間存在の根拠をもっていなかったことです。児童期から青年への成長期、貧しさを克服し、より安定した豊かさを獲得するという当時の時代精神の中で育ちました。私自身が育った家庭環境も、両親の考え方もその中にあったということです。ですから、迷いながら、人生の根拠を問いながら歩んできたと思います。

若いとき、ゲーテやニーチェの本を好んで読みました。中学から高校、高校から大学への受験に失敗し落ち込みがちでした。ゲーテやニーチェの言葉からは、「人間は努力するかぎり迷うものである。絶望体験がないなら、その人の人生には深みがない。絶えず自分を超えていくことが大事。」ということを教えられました。人は挫折体験から、自分の「道」を真剣に探します。そんなとき、行くつもりがなかった高校がミッションスクールだったことから、卒業してから聖書を読むようになりました。結局23歳のとき洗礼を受けました。

洗礼を決意したときの言葉が「来てごらん。そうすれば分かるであろう(ヨハネ1章39)」で、フランシスコ会に入会するまでの私の苦難を支えた言葉が「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ(黙示録2章9)」でした。

20歳のとき風邪をこじらせてリユウマチ熱で数カ月入院して一度死にかけました。ある医師との出会いが私を回復に向かわせました。神から与えられた恵みでした。その後はずっと元気でした。しかし、十数年前腎臓病になって、とうとう腎臓の機能は回復しませんでした。

人は病気になると、苦難を背負います。肉体的苦痛が大きい場合、人はわがままになり、自分の感情をむき出しにしたりしてしまいます。私もそんなときがやがて来るのではないかと思ったりします。でも、それは、しかたがないことなのかもしれません。多くの病人と関わってきて、病気がそうさせるのだと思います。初めから強い人はいません。神さまも寛大なまなざしを注いでくださるのではないでしょうか。

しかし一方、以前からフランシスコの「あまりにも、熱心に薬を願ったり、霊魂の敵でありすみやかに死ぬべき肉を病気から解放したいと望み過ぎたりしないように(勅書によって裁可されていないもう一つの会則の断片72)」という言葉が与えられていました。病気に対しても、神の望まれるように望むということです。

キリスト者にとって最高の価値がキリストの十字架に結ばれることなら、私自身にも「今の自分を超えていくように」と語られているようです。こうして自分の人生を振り返ってみると。苦難を引き受けて行く人生をとおして、神さまがご自身をこの世界に現されていくように思えてなりません。

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