2012年3月20日火曜日

「生と死の医療現場で考えさせられたこと」 21

医療現場で福音を伝える (1)

司祭としてチャプレンとして、病院で日々働く中での自分の姿勢を語ってみたいと思います。

毎日、主として患者の精神的な面、それもスピリチュアルな領域のケアに従事することで直接患者に福音を伝えることがありますかと聞かれたなら、正直言ってあまりないと言えます。それには理由があります。

一つは、現代世界の価値観が多元化していることです。価値観が多元化する中で、これがほんとうの価値であるとか、これこそが絶対的であるとは言いにくい雰囲気が現代社会にはあります。一人ひとりが見出していくものという考え方が非常に強いのではないでしょうか。とくに医療現場では、患者の権利と自律の尊重が重視される時代です。人間は本来自由であるという認識と、過去の時代のパターナリズム(家長主義)的な医療、すなわち権威主義的な医療者側と患者の関係の反省から来るものです。

30年~40年前までは、患者は病院にお世話になっているという負い目意識から医療者側には自分の思いや考えを強く出せないという雰囲気がありました。今日それが大きく変化し、医療者と患者の関係が恩恵的関係から契約的関係になってきていると思います。昔は、チャプレンの宗教者が患者の病室を訪ねたとき、私のところには来てほしくないとあからさまに言う患者は少なかったのではないでしょうか。まして欧米からの宣教師が訪ねて来たとき、直接的に福音的なことを話されていても拒否的な態度を示す患者も少なかったと思います。

二つ目は、日本人の宗教に向き合う姿勢からです。今日では、宗教者であれば来てほしくないという最初から断られるときがあります。癌が進行しているある患者を私が訪ねたことで、「死を準備するように促されたのではないかと思った、来てほしくない。」と、その患者が後で看護師に伝えたことがありました。キリスト教的文化がその基盤にある欧米では、このような患者では反対の反応、むしろ宗教者の訪問を求めることが多いのではないでしょうか。十数年前、ある国立大学の医学生がアメリカにホスピスの研修に行った時、末期がん患者の宗教に対する反応が、日本とでは大きく異なることに驚いたという記事を読んだことがありました。アメリカは患者の権利や自律を最も尊重する国ですが、宗教的価値観も強く表に現れる国です。

病院で一人ひとりの患者とかかわるときは、宗教的なことは出さず、まず相手の価値観を尊重して相手の悩みや苦しみに共感的に傾聴するようにしています。アシジのフランシスコが非キリスト教国に行く兄弟たちに提示した宣教方法に近いものです(勅書によって裁可されていない会則16章、回教徒および非キリスト教徒のもとに行く兄弟たちについて)。もちろん、患者の方から私が宗教者かどうか聞かれたときは、宗教者であることをはっきり言います。まして聖書やキリスト教について質問を受けたりするときは、積極的にこちらから福音について話すようにしています。

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