2012年5月8日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと(23)

医療現場で福音を伝える (3)

-超越的なものとのかかわり

イエス・キリストの死と復活の出来事を病人に一方的に語っても意味のないことです。病人の思っていることや望んでいることを無視するようなかかわり方では信頼関係は生まれません。議論の場になってしまうことにもなります。昔から‘貧しい者に法を語るな’と言われてきました。イエス・キリストの宣教活動の業に見られたように‘癒し’への願いに応えていくことが病人とのかかわりの出発点だと思いました。ですから、福音を伝えるという私なりの取り組みは、福音を通して相手に‘癒imageし’を与える可能性がある場合から始まりました。やがて、死に逝くような人生の危機的状況にある患者と、その家族の‘いやしの業’に携わるうちに、相手が超越的なものを受け止められるときとそうでないときには、心の穏やかさが違ってくるという現象に出会いました。

このような現象は、死のような危機的状況では、近代の人間像に見られる自律的・合理的な価値観で乗り越えてことができないこと示していると思います。福音はイエス・キリストという人格的超越者を信じるということから関係性が生まれます。しかし、私たちが一方的に福音を宣伝し、宣言して相手が心底から信じられるのでしょうか。その前に相手の‘たましい’の渇きとか、‘たましい’の準備がなされていないと、神からの語りかけに応える人格的な関係は成立しないのではないでしょうか。

旧約時代のアブラハムの信じるという行為にも、‘たましい’の渇きとか、‘たましい’の準備がなされていたのではないでしょうか。生まれながら、そのような‘たましい’の準備がされている場合もあります。神からの語りかけである福音を信じるという行為そのものが、自律的・合理的思考の世界を超えているのです。

福音は、人格的超越者との関係だけでなく、超越的な価値との関係でもあります。生存競争に勝ち自己実現を達成していく世界ではないでしょう。安定した生活基盤より、さすらいの民であることを余儀なくされることにも価値を認める世界です。‘汝の敵へも愛せよ’、‘和解しなさい’という言葉が示すように、他者との関係も自分を超えて超越的な他者関係へと向かわせるものではないでしょうか。人が、たとえ同じような危機的状況に置かれても、皆が福音を信じて洗礼を受ける決意をして信仰共同体に入ることができるのではないと思います。

前回のお話で、洗礼を受ける決意をした女性には、過去の出会いや出来事の歴史をとおして、福音を信じるという‘たましい’の準備がなされてきたのではないかと私は解釈しています。また病を抱えるとimageいう危機体験が、自律的・合理的世界、生存競争と自己実現の世界の限界を知り、超越的存在との関係に向かわせしめたとも考えられます。そうした彼女の実存状況に神の霊が介入されて導かれたと言えるのではないでしょうか。

私にとって医療現場において福音を伝えるという業は、病人へのいやしの業に参与しながら、超越的な人格存在と超越的価値を受け止められる人を探し求めることが軸になっています。

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