2013年1月1日火曜日

生と死の医療現場で考えさせられたこと 26

主のご降誕と新年おめでとうございます。しばらく休ませていただいていたこのシリーズ、再開し、もうしばらく続けさせてもらいます。

「癒されるということ」

image現代ほど「癒される」という言葉が飛び交う時代はなかったのではないでしょうか。「癒し系」という言葉が十数年前からマスコミなどで飛び交いましたが、「安らぎ」を感じさせる人物に当てはめて使われていたようです。我々も、ちょっとした「優しさ」の言葉をかけられただけで、「癒された」という思いをもつことがあります。それだけ今の時代と社会が、人に緊張やストレスをもたらす状況にあると言えるでしょう。自分が「思っていること、考えていること、困っていること」などを聴いてもらえたとき、「癒された」という思いになる体験は、誰もがもっているのではないでしょうか。病人訪問をしていて、「聴いてもらえた」だけでありがたいという言葉を聞くことが、よくあります。

「語る」より前に「聴く」という姿勢が、相手に「癒し」を与えるのです。自分について「理解された」という体験は、「聴いてもらえた」よりも、さらにもっと「癒された」という体験を相手にもたらすことになります。

あるとき、一人の生活保護を受けていた患者を病室に訪ねたことがありました。ごく普通の訪問の仕方でしたが、その人は「私の訪問がとてもよかった」との感想を病院の投書箱に投書したのでした。私の想像ですが、多分私が釜ケ崎で過去に体験した学びから「貧しい人」の置かれている状況をごく自然に共感することができていた結果、相手の心に何がしかの「癒し」を与えることができたのではないかと思っています。ですから、アシジの聖フランシスコの「平和の祈り」にある「理解されるよりも理解することを」という言葉は、「キリストの愛にもとづく平和を築く積極的な道」が単に内面の課題としてだけでなく、実践的・体験的な課題として提示されているのかもしれません。

「救われる」という言葉には反発や違和感を抱く人々が少なくありません。しかし、「癒される」という言葉には共感をもつ人が現代では多いと言えます。「救われるは」という言葉は、「悪の道から救われる」、「信仰に救われる」、「人命が救われた」などの表現にあるように、倫理的な次元、宗教的体験の次元、危機的次元で苦しみから脱け出る意味で語られる。image

それに対して「癒される」は、「苦しみや痛みが治る」ことにも用いられるが、どちらかと言えば、「苦しみや痛みが和らげられる」ときに使われることが多いようです。ターミナルケアでの「癒されて旅立つ」という言葉には、この「苦しみや痛みが和らげられて旅立つ」という意味で使われているようです。

16世紀のフランスの医師、アンブロワーズ・バレの言葉に、「われ包帯し、神これを癒したもう」がある。病をほんとうに「癒す」のは医師ではなく、神が「癒す」と言うのである。医師は、神の協力者の立場であり、病人は医師と神の両者の働きによって「癒される」。このことは、人間の「いのち」が生物学的次元と宗教的次元にまたがるものであることを示しています。

現代は宗教的次元が著しく疎外されています。寧ろ人の「いのち」は、宗教的次元である「祈り」をとおして、「いのちの根源」である時空を超えた存在の「癒し」に結ばれるのではないでしょうか。時空を超えた存在に結ばれる「癒し」は、時間とともに消え去るはかないものでなく、聖書にある「キリストが与える平和」(ヨハネ14章27)に示されるような「世を超えた安らぎ」をもたらすのだと思います。

兄弟藤原 昭

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